朝ドラ「まんぷく」のモデル日清食品創業者の『安藤百福』の貧乏話とは

エンタメ

水上アキトです。NHK朝の連続テレビ小説で日清食品創業者がモデルとなった
『まんぷく』が10月から放送となりました。

カップラーメンは日本の半分以上の人が食べたことがあるとも言われてます。

年間1000億食も食べられてるというから驚きです。

 

そもそも朝ドラは現代劇よりも歴史上の実話のほうが面白いこともあり、
あの世界的に有名な企業の創業時を知ることができるというのは
普段なかなか無いこともあり、興味が沸いています。

 

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まんぷく メインキャスト

立花萬平(長谷川博己)…安藤百福

立花福子(安藤サクラ)…安藤仁子

香田克子(松下奈緒)…福子の次姉

香田忠彦(要潤)…克子の夫

今井咲(内田有紀)…福子の長姉

鹿野敏子(松井玲奈)…福子の親友

 

まんぷく脚本家…福田靖
(フジテレビ HERO、海猿、ガリレオ、大河ドラマ 龍馬伝)

 

 

さて、創業者の安藤百福さんは、96歳まで長生きされ、
亡くなる直前までチキンラーメンを食べていたとかゴルフをしていたなどは
聞いたことがありましたが、果たしてどんな人物だったのか追ってみました。

 

幼少期

1910年(明治43年)、安藤百福 台湾にて生誕。

実業家だった親の元に生まれるも早くに両親を亡くして、
商人の祖父母の元で育ちます。

生まれ育った環境がすでに商売であったこともあり、
やはり自然と経験や習慣が身についていたのでしょう。

野心も幼い頃から芽生えていたようです。

 

一度は勤め人になるもすぐ起業する

20歳になった安藤百福は台湾にある図書館で勤め人になりますが、
2年ほどした1932年に退職して起業することになります。

父親の遺産があったことで元手ができ、繊維会社を興します。

祖父母の商売が繊維問屋だったのでその繋がりでしょう。

 

メリヤスを日本から輸入して台湾で販売する会社でした。

ちなみに、メリヤスとはセーターやマフラーなどニットのようなもので
ニット…手編み
メリヤス…機械編み
の違いみたいです。

この事業が大当たりして、輸入先の大阪に来るようになって会社も作り、
事業をしながら立命館大学にも通ってました。

 

ここまで振り返っても、やはり生まれた環境が大きく影響していることが分かります。

起業資金もある程度あって、服飾の商売環境に慣れていたことで
その延長線で優れた目利きが刺さった感じですね。

 

太平洋戦争後

大阪で会社を経営していたこともあり、戦時中も巻き込まれます。

立命館大で精密機械やエンジンを学んでいたこともあり
軍のための製品工場を経営していましたが、
部品横流しなど冤罪を着せられ、憲兵に捕まります。

 

このときは自白強要や、かなりの拷問を浴びせられたようです。

拷問によって内臓損傷による手術もしているほどなので、
普通は日本を恨んでもおかしくないレベルだったのではと感じるのですが・・・

いかに当時の日本軍がメチャクチャやっていたかが分かりますね。

 

その後釈放され、終戦まで疎開して空襲は逃れたものの
大阪の空襲で自分の工場や会社は丸焼けです。

だからと言ってここで引き下がらず、無くなったものは仕方ないとして
次は大阪周辺の土地をあちこち入手して百貨店の経営をしていきます。

戦後の焼け野原状態なので、安く手に入ったのでしょう。

その中で見たのは、多くの人たちが食糧不足で苦しみ、栄養も取れないまま
せっかく戦争を生き延びたのに飢餓で亡くなっていく様子でした。

 

そこで安藤百福が思いついたのが、食料品を開発していくことでした。

 

日清食品の設立

戦後の頃は食料品などほとんど無い状態で、安藤百福が目を付けたのはでした。

海辺で鉄板を並べて海水から塩を取っていきます。

これによって雇用も生まれ、人々に塩分を与えることで食の楽しみを復活させました。

 

また、他にもアメリカから余った小麦が入ってきていたことで
これを使って麺類が作れないか考えていたことがあります。

厚生省にも交渉を持ち掛け、
『麺類ならご飯やパンの代わりになって、1杯で栄養価も取れる』
と話しますが、当時の日本では麺類の流通はまだ無く、
量産できるような工場もノウハウも無かったことで反対に遭います。

そのときは事業に忙しかったこともあり、麺類に着手してませんが、
構想はそのまま後に影響してくるわけですね。

インスタントラーメンはこの10年後に生まれることになります。

 

 

ただ、事業が目立ち過ぎたこともあり1948年にGHQから脱税容疑で逮捕されると
監獄に入れられ、不動産の没収までされました。

しかしここで簡単には引き下がりません。

処分取り消しの訴えを起こし、税務局側も訴えを辞めたら釈放するという取引になり
無罪扱いで釈放されるのです。これが普通の人ではできないところです。

 

とは言え、せっかく上手くいっていた事業も手放すことになってしまい、
大阪の知り合いから信用組合の理事を任されることになったのですが、
この信用組合が資金繰り悪化により倒産してしまい、
責任を理事の安藤百福が負う形となり、全財産を失ってしまいます。

ここにきて無一文となっていました。

残ったのは一軒の自宅だけです。さぞ途方に暮れた日々だったのかと思います。

 

日清食品の設立当初がまさかこんな形でスタートしていたとは思いませんでしたね。

ですが、ここからが安藤百福が現代に至った基点でもあるわけです。

 

インスタントラーメンの発明

安藤百福は監獄に入っていた時にも構想が固まっていたようで、
食糧不足を補うことができる新たな食品として
自宅敷地内の小屋の中で黙々とインスタントラーメンの開発に乗り出します。

 

このとき重視したことは、

  • 飽きられないもの
  • 保存性
  • 短時間調理
  • 安価
  • 安全

という前提のもとに早朝から深夜まで研究開発に費やします。

約1年もまるまるこんな日々を送っていたようです。

きっとこの頃の大変さが奥さんの安藤仁子(朝ドラでは立花福子)さんの目線で
面白く描かれるのでしょう。

 

1年というのは逆によくこの貧相な環境で、そんな短期間で
あんな大発明を作れたものだと感心しますが、
日々の進歩は牛歩状態だったようです。

とにかく1つ転んでは起きるような作業の繰り返しです。

 

お湯をかけるだけで食べられる完成像を描きながら、
スープのしみ込んだ麺を作ろうと製麺機にかけるとボロボロ崩れ、
また麺を蒸したとこからスープを染み込ませると粘り気が出てベタベタです。

 

そんな中、奥さんの仁子さんが揚げ物を作っている様子を見て閃きます!

まとめた麺を油で揚げて乾燥させたのです。

「油熱乾燥法」として特許も取得されました。

これはそこまでの研究からは到底辿りつかなかった方法だったので
奥さんがお手柄だったと言えます。

 

そうしてついに1958年にチキンラーメンが生まれました。

実は、日本で発売される前にアメリカでテスト販売されたようです。

その成功に自信を持って、日本でも「魔法のラーメン」として人気も爆発しました。

このタイミングで現在の『日清食品株式会社』に名前を変えました。

 

カップヌードルの発明のキッカケとは

チキンラーメンから8年後の1966年、
安藤百福はアメリカのあるスーパーにチキンラーメンを持ち込むと、
そのアメリカ人はすぐ食べようにも器が無く、
近くにあった適当な紙コップにチキンラーメンを入れてお湯を入れたのです

 

これが後のカップヌードルへの閃きに繋がりました。

そこからあらゆる材質でカップ部分を試作していき、
弾力、薄さ、軽さ、量産性、に見合った現在のポリスチレン容器に辿り着いたのです。

確かに、買った時点で後はお湯を注ぐだけで食べられるというのは
かなり画期的な大発明だったことでしょう。

 

そして、ここからが世の中に広まった最大の出来事だったのです。

作っただけではまだ認知が無いため、いくら便利なものでも知らない人たちは
手に取りようがありませんよね。

実際にマスコミやスーパー側もそれほど好感触を持っておらず、
販売当初は苦労されたようです。

 

ところが、1972年に『あさま山荘事件』が起こったときに
寒空の中で待機する隊員たちが手にしていたのがこのカップヌードルだったのです。

それは連日テレビで放送されることで、
『あれは一体何だ!?』
『寒い中で暖かそうだぞ』
『どこに売ってるんだ?』
ということで大きな話題を生んだのです。

思わぬところで広告費0円での宣伝にもなっていたのです。

 

商品販売としてこれほど大きなキッカケは無いですよね。

どこで火が付くか分かりません。

 

引退して同族経営に

1981年、安藤百福は日清食品を子供に継がせて引退します。

ただ、長男とは折り合いが悪かったらしく2年ほどで社長辞任されたことで
一旦再起するも日清食品は次男・安藤宏基さんに長く引き継がれたようです。

長男・安藤宏寿さんは2年務めた後にどういう道を進まれたかは不明です。

 

次男・安藤宏基さんに代わってから、
日清食品は『UFO』『どん兵衛』が生まれているので
これらもお馴染みのロングヒット商品になってますね。

『ラ王』『出前一丁』なども何度か食べたことあるなぁと思い出します。

ちょっとお腹減ってきたので、この辺で。

 

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